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Vocal Ensemble 歌譜喜

Vocal Ensemble 歌譜喜

Vocal Ensemble歌譜喜は、2011年に設立したプロフェッショナル声楽アンサンブルである。これまで10年間に6度の主催公演を開催し、また3枚のCDアルバムの発表を行ってきた。プロ声楽家による緻密なアンサンブルを得意とし、その演奏が評価され様々な音楽祭にも選出されている。主な実績は次の通り。2019年8月「ダ・ヴィンチ音楽祭」(主催:古楽アンサンブル アントネッロ、後援:川口市およびイタリア大使館)の古楽リレーコンサートの参加団体に選出、2020年11月「北とぴあ国際音楽祭2020」(主催:北区文化新興財団)の参加公演に選定され演奏会を開催、2021年8月「軽井沢国際合唱フェスティバル」(主催:東京国際合唱機構)にメインゲストとして招待され、フェスティバルのクロージングコンサートを担当。また、若手作曲家への新作委嘱活動も積極的に行っており、これまで国内外合わせて9名の作曲家に20曲以上の新作合唱曲の委嘱及び初演を実現してきた。さらに、教育機関の芸術鑑賞教室のモデルアーティストとしても招待されるなど、音楽教育分野にも活動の幅を広げている。

 

member

田村幸代

田村幸代 Sachiyo Tamura

Soprano

 父は三味線の職人、母は声楽家という家庭で生まれ、私にとって音楽は自然と身近なところにありました。でも、元々邦楽やクラシックに興味があったわけでもなく、父がよく聴いていたボサノバだったり、小さい頃に習っていたモダンダンスで使っていた音源(ジャンルは色々)だったり、アニメや映画の劇伴、当時私の周りで流行っていたJ-Popとか洋楽とか、わりと色んな音楽を広く浅く聴くのが好きな子供でした。 そんなどっちつかずで優柔不断な私は、学校の部活動も結局友達との流れで決めて…それが合唱部だったわけです。 でも、それから国内外の合唱コンクールや合唱フェスティバル、ワークショップに参加したり、仲間たちと刺激的な時間を過ごしていくうちに「歌を生業にしたい!」と段々と思うようになり、大学、大学院と声楽科の学生として学んで、今は歌手として様々な現場に関わらせて頂いています。2019年にはemulsionにも所属している渡辺研一郎くんと、1stアルバム「秋光」を日本アコースティック・レコーズからリリースさせて頂きました。  AcappelLabo主催の富本くんとは大学の同期で、合唱もずっと一緒にやってきました。2011年にヴォーカルアンサンブル歌譜喜を結成してから、これまで演奏会やイベント、CDのレコーディング、新曲の委嘱初演など様々な経験をさせて頂いております。 歌譜喜をはじめ、AcappelLaboのメンバーは1人1人が個性的だし、技術も表現力も素晴らしいし、本当に尊敬できる仲間たちと一緒に音楽が出来ることが大きな喜びです。 私もそんなメンバーの1人として、これからも精一杯取り組みたいと思います。今後ともご期待下さい!

小林祐美

小林祐美 Yumi Kobayashi

Alto

 私の原点はふたつあります。 ひとつめは、自宅でピアノを教えていた、元小学校の音楽教師でもある母です。「練習をしない人にはレッスンをしない」というスタイルだったので、あまりレッスンはしてもらえませんでした(笑) ピアノが嫌いだったわけではなく、曲を知っていればちょっとした左手とメロディーを弾けたので、「セーラームーン」や「名探偵コナン」の曲を弾いては、得意顔になっていたと思います。 ふたつめの原点は、学校教育のために合唱が絶対に必要だと考えていた教師の父です。いい声だとか、音がハモっていることとは無縁のような父のクラスの合唱の生徒たちの目の輝き、楽しそうに一生懸命歌う顔を見て「合唱ってなんだ、何でこんなにガツンと胸に響くのだろう…」と初めて合唱への憧れを抱きました。 中学、高校と合唱三昧の時間を過ごし、たくさんの友達ができました。どの時も、素晴らしい先生、私のとぼけた部分も笑って面倒を見てくれる優しい仲間に囲まれ、一緒に歌う時間がいつも幸せでした。 大学では松下耕先生の合唱団に入りました。松下先生はもちろん素晴らしい音楽家ですが、先生が合唱を通して教えてくださったことは音楽だけでは決してありませんでした。  卒業後は東京混声合唱団とVocal Ensemble 歌譜喜で活動しています。どちらのメンバーも、家族のようであり、憧れの存在です。 私にとって合唱は「人との繋がり」そのものです。音楽家として、音楽自体の価値を判断することは、ほぼできないと言っても良いかもしれません。(どうなんだそれは) まだまだ先は長いので、これから勉強していくつもりです。

佐藤拓

佐藤拓 Taku Sato

Countertenor / Tenor

 同級生が12人というなかなかの田舎で育った自分にとって「音楽する」ということはそう身近なものではありませんでした。もちろん音楽の授業はあったし、保育園の時には合奏大会などにも出ていた(出させられていた?)んですが、町にはCDショップも楽譜屋もなく、自ら進んで音楽に手を伸ばせるような環境にはなかったのです。そういえば、ド田舎の癖に伝統芸能とか民謡とかもほとんど残っておらず、小学校でも合唱をした記憶はありません。 だいたい人の音楽観というのは幼い時に形成されるものでしょうが、今現在自分がやっていることを見ると、どういうわけか幼少時代に経験していなかったことばかりなのです。自然の中で民謡を歌うこと、人とアンサンブルすること、人間の声の可能性に目を向けること・・・その萌芽はもちろん僕の幼い日々のどこかに水源はあるのだろうけど、その頃から親しんでいるものではなかったのです。  思えば親が与えてくれた名前よろしく、自分の知らないところへ足を踏み出しがちな、体よく言うとフロンティア精神が身についたということなんでしょうか。いやいや、たぶんそんなカッコいいものではなくて、単なる天邪鬼のなれの果て。 約20年前、「アンサンブル歌手になりたい」と志を掲げて、就活もせずにぬるりと音楽の勉強を始めたのも、そんな理由だったのかもしれない、当時はアンサンブル歌手などという呼び名は存在していなくて、合唱で歌うことを生業とするのはごく一部の人だけでした。それでも、いつかアンサンブルが専門職として認められ、自分もその列に立てるような実力を身に付けたいと学びを続けてきたのは、天邪鬼の心ゆえではなかった、と思います。  歌譜喜、そしてAcappelLaboとの出会いと歩みは、僕自身のアンサンブル歌手としてのテクニックとミュージシャンシップを大いに高めてくれました。自分一人ではこの景色は見れなかったろうし、この先にもはるかに広いフロンティアがあることをいつでも感じさせてくれます。ここに集まる優れた・おもしろいアンサンブル歌手たちとの邂逅は、やはり幼いころには想像だにしていなかった景色で、ああーまた知らない所へ足を踏み入れられたなぁ、と独り言つのでした。

富本泰成

富本泰成 Yasunari Tomimoto

Countertenor / Tenor

子供の頃から歌とゲームが好きだった私は、ゲームの世界を華やかに彩るキャラクター達の声に魅せられていました。 そしてそれはいつしか憧れに変わり、声優の仕事に興味を持つようになりました。 放送部が強い高校に進学し、期待に胸を膨らませた入学式の日。合唱部が披露したアカペラの校歌合唱に、稲妻に打たれたような衝撃が走りました。 それまでは無伴奏の合唱というものを体験したことがなかったため、「人の声の重なりだけで、こんなことが出来るんだ」という感動と驚きで、鳥肌が立ったことを覚えています。 その後、放送部と合唱部に入部し、二足のわらじを履いて高校生活を送ることになりますが、高校2年生の時に指導にいらしたボイストレーナーの先生の声を聞いた瞬間に「芸大に進学しよう」と決意をしました。 奇跡的に芸大の声楽科に現役合格することが出来、芸大の先輩が立ち上げた合唱団に入団。数々の国際合唱コンクール、国際合唱フェスティバルに参加する中で、何度も「人の声って、すごい!」と感じられる、自分の価値観を打ち砕いてくれる素晴らしい演奏と出会うことが出来ました。 そのような演奏に出会った時に、喜びや驚き、憧れのほかに、悔しさのような感情を抱くことが次第に増えていきました。「自分もこのような演奏ができるようになりたい…」と。 そんな気持ちがあり、6人組の小さなアンサンブルを作ることから、私の音楽活動は始まりました。 混声6名のアンサンブル、Vocal Ensemble 歌譜喜です。 そして、女声8名の八重桜、男声7名のemulsionと、編成が異なる計3つのアンサンブルを立ち上げました。 アンサンブルの活動を続けていく中でも、世界のさまざまなアーティストの演奏を聴き、憧れと悔しさは大きくなっていきました。 その中で「自分の人生で、これほど大きな感情を湧きあがらせてくれるもの音楽だけだ。自分の人生を彩ってくれているのは音楽に他ならないんだ」という気づきがありました。いつの間にか、自分にとって本当になくてはならないものになっていました。 そして、素晴らしい世界を教えてくれたアーティストたちのような活動を、日本で行なっていきたい、という夢を持つようになりました。 そうすることで、多くの人が(かつての私と同じように)人と声を合わせることの奥深さにハマっていき、「合唱」を人生の相棒として、仲間たちとより良く生きていけるのではないか、と。 そのような夢を追うことが出来るのも、同じところを見て、私と一緒に音楽をすることを楽しんでくれるメンバーたちのおかげです。 合唱の素晴らしさ、人と声を合わせることの素晴らしさを大くの人に伝えていきたい、という大きな目標を抜きにしても、彼らと出会えた幸せを噛み締めながら、自分の憧れへと近づいていけるように、メンバーたちと歌うことを心から楽しんでいきたいです。 私はこの会社の取締役として、彼らに感謝の気持ちを十分に示すため、全力で頑張っていきたいです。

谷本喜基

谷本喜基 Yoshiki Tanimoto

Baritone

 1989年6月、紀南地方で産声を上げる。「いつも喜んでいなさい」という聖書のことばから、名前を喜基と名付けられ、すくすくと育つ。幼稚園のころは先生の伴奏に「その音違うで」と言い放つ失礼極まりない園児であったらしい。当時通っていたヤマハ音楽教室のジュニア専科(通称J専)は地元にはなく、毎週往復2時間車を飛ばして送り迎えをしてもらっていたのだが、教室に到着した瞬間にパワーワード「お腹痛い」を連発し、やむなく直帰させるという大物ぶりを発揮していた。  幼き頃から先生に恵まれ、マイペースに音楽の勉強をさせてもらっていた。ピアノの音当てクイズや作曲体験、CMやゲーム音楽の耳コピなど。7つ下の妹のことを観察しながら作曲した「ヘムヘムしおんちゃん」がJOC(ジュニアオリジナルコンサート、テレビ朝日で朝7時台に放送していた番組)の方の目に留まり、テレビ出演をさせて頂いたのは良い思い出だ。印税生活とまではいかなかった。  声楽を始めたのは高2の時、母の勧めで。歌をやって損はない、という言葉は33歳(2023年現在)になった今でも強く自分のなかの礎を築いている。特に裕福な環境でもなかったため大学は国立一択、芸大のレベルもよく知らずに入試に突撃し、2次試験で2回散ることとなる。さすがに同じ試験で落ちたときはくやしくて涙が出たが、浪人生活もわるくないと確信していた自分は実家でのほほんと農業手伝いに精を出し、もらった給料はほぼ、コナミの某音楽ゲームに落としていた。翌年なんとか芸大の門をくぐり、声楽科としての生活をスタートしたが結局一番精を出していたのはピアノ伴奏だった。学部4年間で、ありがたいことにほぼ全ての声楽の先生のレッスンに潜入することができた。レジェンド先生方のアドバイスは強烈でどれも忘れられない。「高音は天使さんがピッってするのよ」「とんぼ捕まえろよ」「ピアノは下から上に弾きなさい」等々。  在学中、アンサンブルシンガーとしての道を拓いてくれたのはAcappelLabo代表の富本くん。「こんな活動してるんだけど、どう?」とICレコーダー片手に私を誘ってくれた。その後加入を決めて、今でも楽しく活動を続けているのが、Vocal Ensemble 歌譜喜である。歌譜喜での素敵な経験は数えきれない。 アンサンブルとは何か?という問いは常に歌譜喜との活動の中で考えてきた。その日までに積み上げてきた技術、人間力を持ち寄って、音楽という非日常世界に皆で飛び込み、徹底的に対話する。一人では絶対に達することのできない音楽的調和(これには聴衆も必要)の瞬間を感じたとき、私はこの上ない喜びを感じる。  近年は音楽団体「イコラ」の主宰として、1億総アーティストの精神で音楽の美しさを伝える活動を続けている。指揮者・ピアニスト・アンサンブルシンガー・イングリッシュハンドベル奏者など活動は多岐にわたっている。 公式twitter→https://twitter.com/Yooooooooos

松井永太郎

松井永太郎 Eitaro Matsui

Bass

小学3年生から吹奏楽部に入部し高校3年生までおよそ10年間Tubaを担当する。 当時全国大会に出場するなど強豪校だった母校の小学校では、入部時期が遅かったのに加え男の子ということもあり、不人気なその自分の体よりも大きな楽器を担当。演奏している時はスタンドに立てる為重さはさほど気にならないのだが、音を出す時に相当な量の息を消耗するのでほとんど一音〜二音毎にブレスを取るしか無かった。楽器が古くてピストンは戻りが悪いしおまけに唾が垂れてくるし、1番管は何故かめっちゃ唾溜まるし、2番管はやたら開けにくい上に唾溜まるし、3番管なんて錆びついてるのか乾燥しきってるのかどうやっても開かずもう唾が溜まってるかどうかさえ分からない。 他の楽器で楽しそうに旋律や早いパッセージを演奏する部員達を横目に不貞腐れた私は、卒業したらもうこんなんやめてテニス部で優勝してやると違う方向に闘志を燃やす。 数ヶ月後の春、新品のテニスラケットを肩に、まだ裾の弛んだ青いジャージを着た中学生松井の姿がそこにはあった。ミュージカルにまでなった某テニスマンガが流行り始める前の時代だったからなのか部員の数が少なく、一年目にしてまさかのレギュラーとなってしまい常に一回戦敗退。その悔しさからますます練習に打ち込もうとテニスコートへ向かうある日の放課後、校内放送で音楽室へ呼び出される。音楽の授業で忘れ物でもしたかなと音楽室の入り口へ来てみると、そこで待っていたのはギラギラと銀色に輝く新品のTubaと、同じく満面の笑みでギラギラに歯を輝かせた吹奏楽部顧問の先生。どうやら私の為に楽器を新しく買い替えてくれたらしい。そんなことってあるか。このモデルだと50万以上はするぞ。 結局テニスの王子様になる夢を諦めて渋々再び吹奏楽部を続ける事になったのだが、小学校の時に出しにくかった音が軽く出せるようになっていたり顧問の先生の計らいでTubaソロの曲を頂いたりして技術も磨かれていき、明らかに景色は明るくなっていった。 高校に入るとフィリップジョーンズブラスアンサンブルのジョンフレッチャーにどハマりしCDを聞きまくり、アンサンブル好きな友人達と毎日放課後だけでなく早朝も昼休みも練習した。練習というよりそれは自由に好きな曲をセッションする遊びだった。 現在は声楽家として活動していてTubaとは疎遠になってしまったが、今のアンサンブル好きな自分がいるのはその高校時代の幸せな時間があったからだと思う。 歌譜喜に於いてもemulsionに於いても、誰の為でも無く夢中で音楽を追求していける場所だと感じている。AcappelLaboの一員として歌わせて頂きこの歳になっても青春を謳歌している自分はとても幸せ者だ。

大津康平

大津康平 Kohei Otsu

サポートメンバー / Bass

1991年生まれ。産まれた病院は神奈川県。当時住んでいたところは千葉県。幼少期を長く過ごしたのは埼玉県。こういう場合は出身地はどこなのでしょうか。今も千葉県在住なので、千葉県出身の大津康平です。バリトン歌手やっています。 音楽を始めたのは小学校3年生の時、札幌市の小学校合唱団に入団した時です。転勤族の家庭に育った私は、その小学校にあるなにかのクラブに入るのが好きで、小学校に入学した埼玉県の小学校には土俵があったので相撲クラブに入ってました。1勝もできず2年生で札幌へ転校。たまたまその小学校はNコン全国大会常連の強豪校でした。ボーイソプラノから始まり、低音のハモリに目覚めたのは小4の終わり頃。怖い顧問の先生に怯えながら「アルトに行きたいです」と直談判したのを覚えてます。そして、完全に低音でハモることが好きな少年が完成しました。 中学校で千葉県に引っ越し、吹奏楽部で打楽器を3年間やりましたが特に当時は好きになれず、高校で八千代松陰高校に入学し合唱部に入部しました。 同い年で船橋高校に「富本泰成」っていういつも歩きながら歌ったり発声練習してる変わった人が居ました。複数の高校が集まって男声合唱したり、一般の合唱団に入って一緒に歌ったり。(アレッ、15年くらいやっていること変わらないなあ。。) 変わり者には近づかないのが世の鉄則ですが、同い年で良い声で合唱が大好きという人物との出会いは、結果として私のその後の音楽人生を良い方向に変えるものになりました。たまには変わり者についていくものですね。 声楽を専攻しましたが、異なる大学に通いながらも富本くんと一緒に歌う日々は続きました。合唱団のなかの有志で集まって男声合唱をして、何回かコンサートも開きました。また、芸大生達で組織されたアンサンブルにも何を思ったか小生を誘ってくれました。大学を卒業してからも「八咫烏」に誘ってくれたことは、本当にありがたいことでした。 合唱が大好きで今でも飽きずに続けられているのは、まだまだ合唱や音楽・発声に関して未知の領域が広く、常に新しい発見に恵まれているからだと思います。そしてそれをもたらしてくれるのが富本くんです。ボイストレーニングや合唱指導や知識の豊富さなど、自分の日頃の合唱指導の現場へどれだけコソドロしていることか・・・!そう、普段は合唱指揮がメインで、15団体くらいの合唱団と関わっています。ほかには桐朋学園大学での講義や、県や市の合唱連盟理事などもしています。ソロも地道に頑張っています。レパートリーは三善晃・鈴木輝昭などの現代作品が多いです。野球観戦と美味しい食べ物や飲み物が好きです。

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